理屈じゃないと思うのです

時々ブログ経由でメールを貰います。

どうして写真を撮るのか、どうして毎日更新できるのかとか、どういうテーマで撮っているのかとか、機材がどーこーとか、補正がどーこーとか。

質問にはなるべく回答するようにしていますが、批判に関しては一切無視の姿勢を貫いています(笑)めんどうな事は嫌なんだよ!!

真面目な話、写真を撮るという行為に、理屈は必要ない気がします。

撮りたいから撮る。それでいいじゃないのか?って。テーマとか、ムリに考なくても、撮ればええやん?って。

「写真は理屈じゃない」なんて陳腐きわまりない台詞をネットで吐いてる方を時々見ますが、そういう人って「理屈じゃない」と言いながら、めちゃくちゃ理屈っぽいんですよね(笑)

自分の写真観を書いてるけど、長い長い。延々同じことを繰り返して書いてるんだけど、悦に入ってる本人はそのクドさに気づけないから、しんどいです。そういう人とは、あまり友だちになりたくないです。

読書の楽しみって、感受性の差だと思います。

感受性の差ってのは、たとえばある作品を初めて読んだのが中学生だとして、その後、大学時代、結婚して、老後、なんて、成長というか、時間の経過に合わせて同じ作品を再読すると、印象って変わりますよね?

分かり易い個人的な喩えだと、田山花袋の「蒲団」を初めて読んだのが、僕が中学生の時でした。何だこれ?普通の話やん?って思ったのを覚えてます。何より僕の目線は、若い芳子とその彼氏である秀夫に近く、オッサン気持ち悪る!という印象でした。それは大学時代に再読した時も同じでした。

しかし30手前で読んだ時は、ガラっと印象が変わりました。僕は明らかに主人公の冴えないオッサン視点で作品を読んでいました。つまらん日常に辟易していた時雄の元にやってきた、若くて美しい女性。愛人にしちゃう?みたいに悶々としてたら、田舎から来た若造にあっさりやられてしまって、何だそれ!?みたいに泣いちゃう姿の方が、圧倒的にリアルに自分に突き刺さったのです。

年を経て、何度も同じものを読むから、こういう発見ができる訳ですし、読書(あくまで文学作品)する意味いうか、本質は、そこだと思うのです。そういう読書の楽しみと同じものが、写真にはあるんじゃないのかと思います。

写真というのは単なる記録です。芸術とか言っちゃう人もいますが、そこまで高尚なものだとは思っていません。そして写真は、数があって初めて意味があるとも思います。

数多くの記録を残していけば、時間の経過とともに、「事実の記録」とは別の感情を連れてきてくれるんじゃないかと思うのです。経験則ですが、人って感情は覚えているけれど、事実って忘れちゃうと思うんですよ。変なバイアスかけちゃったり、美化したり改竄したりで。

写真ってのは基本的に事実を切り取る訳で、その数が膨大であればあるほど、リアルに事実を残せると思うんですよね。

僕は基本的に毎日写真を撮っています。すべて自分を中心に、半径数メートルの世界ですが。写真として残したそれらの事実が、感情とリンクして、現実にあったことだと、記録されたら、少しは意味があるような気がしています。

だから僕が撮るものにテーマなんてありません。いつか、そう遠くない将来ですけれど、テメェのちっぽけな人生を回顧する時に、初めて意味とか生まれるんじゃないかなと。

だから撮っちゃえば良いんですよ。何も考えず。取りあえずカメラ買って、街に出たらいいと思います。

2017年06月02日 | Posted in GR biyori | | No Comments » 

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